ヴィトンが長嶋茂雄と違うのは、おそらく長嶋茂雄には未来永劫、名誉に傷がつくことがないだろうが、ヴィトンはその未来が永遠に保証されているわけではないことだ。ブランドのイメージダウン、売上低下という事態が絶対に起きないとは限らない。イタリアのある老舗ブランドの日本法人の社長は、「ヴィトンの将来は予測できない」といいつつも、「ヴィトンはプレタポルテに参入し、ファッションの世界に急速に足を踏み入れた。ブランドアイデンティティが揺らぐ恐れは否定できない。危険水域に達しているのではないか」と話していた。プレタポルテ参入がヴィトンのアキレス腱になる可能性があると指摘する声は多い。洋服の在庫管理は難しい、ラインナップが拡大すれば高級感が損なわれるというのがその理由だ。一方で、プレタポルテのコレクション発表により、春と秋の二回マスコミへの露出回数が増え、メインのバッグ事業にインパクトを与えるという説もある。洋服の売上は五%に満たない。私は、洋服の売上を過度に広げようとせず、本業であるバッグ事業のアクセント的な位置づけにとどめておくならば、大きなリスクにはならないと考えている。むしろ気になるのは、バッグや革小物類のラインナップを広げ、より買いやすいような低価格のアイテムを増やしている点だ。ヴィトンを持つ日本人の低年齢化は著しい。小学生のヴィトンファソも出現しているほどだ。低価格のアイテムを増やし、子供におもねっているようにさえ見える。これによって上の世代のヴィトン離れが起き、「もうモノグラムはダサい」という認識が広まれば、お化けブランドといえどもあっという間に危機的な状況に陥る。日本人は、どんなに熱狂し夢中になったブランドであっても、ある日突然そっぽを向いてしまうことがある。あれだけ街にあふれていたプラグのナイロンバッグは、今やすっかり過去のものだ。そのほとんどは、おそらく押入の奥で眠っていることだろう。「もうプラグのあのバッグを持つのはダサい」という共通認識が生まれてしまったのだ。こうなっては、致命的である。復活は難しい。とすれば、ヴィトンにも同じことが起こりうる。その危険性はないとはいえない。ルイーヴィトンジャパンは、日本でヴィトンを世にも稀な「大衆的な高級ブランド」に仕立て上げた。日本におけるヴィトンは、その大衆性といい、あとで詳細する中古品流通での人気といい、もはや本国のヴィトンとも、他の国のヴィトンとも違う別のブランドのようになっている。そして、本来とは別ブランドと化したジャパニーズヴィトンが全体の売上を支えている。だが、その売上の要であるジャパニーズヴィトンがアキレス腱となる事態も考えられる。プラグの例に見るように、日本人が一斉に夢からさめて、引き潮のようにヴィトンから離れてしまったら。高級で大衆的なブランドということ自体が、そもそも実現が難しいパラドックスなのだ。ヴィトンは巧みにそのづフドックスを体現してきたが、あまりにも大衆化し過ぎたように思う。あまりにも低年齢化か進行しているように見える。ブランドビジネスのパラドックスの危うさ、恐さは誰よりもルイ・ヴィトンジャパンがひしひしと感じているに違いない。海外ブランドブームは、第一次が一九七〇年代のはじめ、第二次がバブル経済時、第三次が九〇年代半ば、そして現在が第四次ブームの真っ直中だ。もっとも、これはあくまで大きな波であって、その間に日本人のブランド志向が弱まったということではない。ブランド好きは日本人の国民性のようなものだ。ここでは、日本人のブランド熱愛の歴史を探ってみたい。